大東 将啓(オオヒガシ マサヒロ) Masahiro Ohigashi, Ph.D. 略歴 |
日本ゴルフ界で初の博士プロ。 ブッチ・ハーモン、デビット・レッドベターをはじめ、通訳、翻訳、インタビュー等を通じて100人を超える海外ティーチングプロから学ぶ機会にめぐまれました。 日常生活に取り入れるだけでゴルフが上達する「ゴルフエクセサイズ」と、200種類超の「ゴルフドリル」で 「悩めるゴルファー」から「楽しいゴルファー」へのお手伝いをしています。 「ゴルフホームドクター(GHD)」を主宰し、ゴルファーのトータルサポートに当たっています。 NPO法人「エイジレスゴルフクラブ(AGC)」のイベントを通じて東北震災への義援活動をしています。 |
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ロータリークラブでの卓話の模様
1958年 | (昭和33)6月9日生まれ |
1981年 | 同志社大学経済学部卒業 |
1983年 | ダラス大学院経営修士課程(MBA)修了 |
1990年 | (社)日本プロゴルフ協会(PGA)認定 |
A級ティーチングプロ 文部科学大臣認定ゴルフ教師 | |
1997年 | PGAコンベンションティーチング部「優秀賞」受賞 |
1999年 | PGA 研究発表 「最優秀賞」受賞 |
2001年 | PGAコミュニケーションプログラム 「優秀賞」受賞 |
2003年 | 高知工科大学起業家コース博士後期課程(学術博士)修了 |
2008年 | PGAティーチングプロアワード「優秀賞」受賞 |
著作: 「ゴルフ博士・大東将啓が提唱する!毎日5分の新ゴルフ生活習慣」学研 「出直しゴルフ60のヒント」徳間書店 「易しいゴルフ57のツボ」徳間書店 「ザ・ゴルフボール」ごま書房 「ゴルフホームドクター」ゴルフ&ゴルフ 「一人で上手くなるためのチェック&ドリル」日刊ゲンダイ 「ゴルフイメージ革命」日刊ゲンダイ
(講演実績) UFJ総研、日本総研、総合ユニコム、野村證券、日本生命、読売新聞 社団法人日本プロゴルフ協会 読売新聞わいず倶楽部 パーゴルフ 社団法人全日本ゴルフ練習場連盟、社団法人日本ゴルフトーナメント振興協会 日本ゴルフ学会、各地区の国際ロータリークラブ、ライオンズクラブ、青年会議所、 各ゴルフコース、各ゴルフ練習場、その他 (メディア出演等) 関西テレビ、毎日放送、読売新聞、朝日新聞、週刊パーゴルフ、ゴルフダイジェスト、日刊現代、 スポーツニッポン、ゴルフ&ゴルフ、スーパーゴルフ、月刊ゴルフ用品界、その他
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今まで私は、通訳、翻訳やインタビュー、セミナー等を通じて、100人を越える世界のティーチングプロと接する機会に恵まれました。 デビット・レッドベター、ブッチ・ハーモン、デーブ・ペルツ、ボブ・ルーテロ博士、ボブ・トスキ、ゲーリー・ワイレン、ジョー・ティール、ジャック・カーケンダルをはじめ多くの方々から学べたことは、私のティーチングに多くの影響を及ぼしました。 しかし、わたしは多くのゴルフ理論の中から、一つだけに固執するつもりはありません。 出来るだけ多くのティーチングプロから色々な事を学び、幅の広いレッスンが出来るように心がけて参りました。また各々のゴルフ理論はあっても、彼らの根底に流れるティーチングに関する哲学は、一致していたような気がします。 「ゴルフ理論に、正しい、間違いはない。より効果的な方法を各ゴルファーに適用し、各人の能力を最大に引き出すのが、指導者の役割だ。従って指導者は、色々なゴルフ理論はもちろんのこと、他のスポーツの指導法をはじめ、多くの分野を勉強する意欲を持ち続けることが大切だ。」と私に教えてくれた、アメリカのマスタープロフェショナルの言葉を座右の銘としてきました。たくさんの人に出会い、接し、学ぶ中で、私なりに消化吸収し実践しているゴルフ指導法を紹介させていただきます。
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博士課程修了の報告とお礼
2003年のカシオワールドオープンで今井克宗選手が優勝した。翌日の新聞には「プロ資格を持たない今井克宗が優勝!」とあった。この記事の意味を一般のゴルファーはどのように理解しているのだろう? 実際、日本プロゴルフ協会(以下PGA)や小生にも「プロではないとはどういうことか」といったような問合せが多く入った。
話は5年前にさかのぼる。PGAからツアー部門が日本ゴルフツアー機構として独立し、今井選手のようなプロゴルファー(PGAの会員)ではない「トーナメントプレーヤー」が生まれた。プロゴルファーの集団として1957年に設立されたPGAは、50年近くの歴史の中で旧態依然とした組織から脱皮できずに、トーナメント選手会との軋轢が生じていた。バブル崩壊でトーナメント数が減少してきた背景もあった。華やかなトーナメント部分がなくなったその後のPGAは、傍目にはツアーに出られないプロとインストラクター会員達の抜け殻のような存在にも見えた。
「PGAに残された使命は?」私は一会員として自問自答を繰り返した。
体のケアーをするのが医者の仕事であり、法律の場合は弁護士となり、ゴルフの場合は、PGAのメンバーであるゴルフプロフェッショナルでなければならない。しかし、現実は程遠い。日本のプロ資格は、武道の黒帯のごとく実力が落ちても一生物で、一度プロゴルファーになれば、腕が落ちてもそのままの資格が保証されている。プロになれない者がアシスタントプロとしてゴルファーをレッスンする風習もあった。レッスンとトーナメント活動とは全く違う職域でありながら、片手間の職業のような存在。これではお客様に失礼である。残念なことに「レッスンプロ」というと、社会的地位がまだまだ低く、職域として正しく認識されているとはいいがたい。
私は今までデビッド・レッドベター、ブッチ・ハーモン、デーブ・ペルツ、ボブ・トスキ、ピーター・コスティス、ゲーリー・ワイレン、ジョー・ティール、ピア・ニールソン等、世界を代表する100人に以上のティーチングプロの通訳、翻訳、インタビュー等から学ぶ機会に恵まれた。彼らを通してアメリカプロゴルフ協会のティーチング&コーチング等の研修会にも積極的に参加し交流してきた。米国プロゴルフ協会は、1916年に設立され、現在は28000人ものプロが所属する世界最大のプロ集団組織である。加えていえば、彼らも1968年にツアー部門がPGAツアーとして組織から独立した経験を持っている。しかし現在は、上記のティーチングプロらの活躍もあって、全米15000余りのゴルフコースのヘッドプロを中心に、ゴルフ界に認知された確固たる地位として存在している。
私はこれらの経験から、ゴルファーをトータルサポート出来る「ゴルフのホームドクター」としての日本型ゴルフプロフェッショナルの必要性を痛感した。また、そのための新たな改革が必要とされていることも、業界内外の一致した意見であった。しかし「ゴルフのホームドクター」といっても、アメリカプロゴルフ協会と違い、日本のPGAの会員で文字通り“ドクター”=博士号を持っている人間などいない。そんな中、小生にお鉢が回ってきた。そこまで言うなら「博士号でもとって、ゴルフプロフェッショナルが真の意味で社会的に認められる職域となる手助けをして、ゴルフ界発展に寄与せよ」という大役を仰せつかった次第だ。
しかし現実は甘くなかった。2000年に高知工科大学大学院に入学したものの、勉学は20年以上のブランクがある。毎週末の朝9時から夕方5時までの集中講座に加えて、宿題やレポート提出の山。最終年は博士論文をまとめる作業も加わり、仕事と学業という二足の草鞋を履くことは、言い表せないほどの苦行と化した。何度となく壁にぶち当たり、打ちのめされ、挫けそうにもなった。
<ダラス大学院の卒業式1983年>
そんなとき心の支えになったのは、アメリカでの経験であった。ちょうど20年前の1983年の夏ごろ、論文作成に悩まされているさなか、角帽をかぶってダラス大学院の卒業式に出席している自分自身の夢を度々見た事が蘇って来た。当時は日本経済が全盛で、MBA(経営学修士)課程に入った私には、日本企業のアメリカ市場進出事例についての研究テーマが山ほどあった。授業を離れて食事中やシャワーを浴びている時も、文字通り四六時中そうしたケース・スタディーのことが頭から離れない状態であった。日本の大学と違って学問の為の勉強ではなく、実際のケース・スタディーを取り入れたり、地元会社のコンサルティングを行ったり、刺激に富んだものだった。もがき苦しんだだけに「夢に見た」卒業式は最高の思い出となった。
あれから20年、世界経済をとりまく環境は大きく変わった。特にバブル崩壊以降の日本経済の低迷は長く続いており、中小企業の苦しみは深刻だ。私は中小企業の不況脱出の方法の一つとして「第二創業」をテーマにして、同大学院の起業家コースで学んだ。私にとって久しぶりの勉学は、今後のビジネス展開のうえで大きな意味を持つものとなった。「人生一生勉強」とはよく言ったものである。
この20年、自分がどれほど成長したかは疑問が残るが、この間の多くの人との出会いは私の大きな財産になっている。皆様から頂いたご支援がなければ、今回の論文をまとめることは出来なかった。この場を借りて改めて御礼申し上げると同時に、今まで学んだことを実社会で役立てることが、皆様に対するご恩返しと強く考えている。
東香里ゴルフセンター 大東将啓