Toshi.Hirataの「気ままなアメリカ日記」  連載はこちら

【私のプロフィール】

Toshi Hirata

顔も見えない私のプロフィールを少しだけ(といっても長なりそう・・・・・)

26才でゴルフを始める。(息子が生まれた年だった)
3ヶ月後知人のコンペでブービー賞(138ストローク)
シングルの友人に馬鹿にされ「3ヶ月でお前を抜いてやる」と公言00万円賭ける。
ゴルフの事を知らないといえは恐ろしい事が言えたものです(笑)
一日500球の練習を9番アイアンで3ヶ月。
3ヶ月後彼の主催のコンペに再度トライ
グロス45、46ネットー17アンダー(笑)で断とつ優勝。
一緒にまわった友人は勿論大くずれ。(ベットは私のもの)

これが私の人生を狂わした元。
才能があると信じきった私は「プロに成るしかない!」と
友人のプロに相談
「1%の望みも無い」と言われ余計に発憤
しかし26才の私を研修生で受け入れてくれるとこなど何処にもなく。
止む無く近江富士CCで管理の仕事をGETする。(当時上出裕也、柚木龍一が研修生として在籍していた)

1年後練習場のアシスタントプロとして受け入れてもらい。
1986年JPGA入会。
その後レッスンプロとして活動。
1995年中島プロの主催するトミーカップに西日本予選2位で出場。
この時アメリカ行きを決断。
レッスン活動に区切りをつけツアープロ目指すべくフロリダのオーランドに渡米。

1年間で600ラウンドをこなす。
当時アメリカで最大級のMiniTour(?)トミーアーマーツアーに参加。(Casey Martin,Joe Durant、Tim Petrovic等
現在PGAでプレーしているプレーヤーも数多くいた)

優勝スコアは3日間で少なくとも12アンダーは必要だった。

アメリカのプロの底力を見せ付けられるも、1年後何とか一勝出来る。

PGAクォリファイにも2回エントリー
2度目は4日間イーブンで回るも2アンダーカットでファーストクオリファイさクリア出来ず。
その年13才になる息子が初めて渡米。
初めてのラウンドに挑戦(日本で練習場の経験はあった)100を切る
1ヶ月滞在中一度も100を叩かず。
BESTスコアは最終日83(レギュラーティ)
驚いた私は家族揃っての渡米を決断!!
現役を引退
息子に賭ける(笑)

 


【私のプロフィール】

 
1997年家族ともども再渡米。
この間ビザGetのため大変な苦労があったがとにかくアメリカの大地を再度踏んだ。

2
年間ゴルフチャンネルのゲストコメンテーターとして外側から勉強出来た事は非常に有意義でありまた楽しいものであった。

私の相方を務めて下さった薬師寺広アナウンサーはシングルプレーヤーでもあり素晴らしい受け答えをしてくれた。

我々はオーランドでもっとも難しいとされている(あのアーノルドパーマーのホームコースでありPGAのトーナメントコースでもある
BAY HILL CLUB
に居を構えメンバーとなった。

 


【私のプロフィール】

1998年息子15才HDCP1になった。

時は熟したとフロリダジュニアトーナメントに初参加
80を打ってくれた(涙)
優勝スコアは72
夫婦ともに意気消沈・・・
「やっぱり早すぎたのかなぁ?」
しかし優勝スコアの72という数字にレベルの高さを感じさせられた。

そして2週間後・・
75で優勝
思わぬ拾い物に皆で喜ぶ!!

その後何と4連続優勝を勝ち取り71アベレージスコアでシリーズチャンピオンになる。

その勢いのまま BAY HILL junniorも奪取!
HDCPは+1となった。

1999年初冬
BAY HILL CLUBチャンピオンシップに友人でもありライバルでもある(今はかなり差が出来た・・笑)Ty Tryonと共に挑戦。
2人して撃沈!!

しかしフロリダジュニアは2年連続シリーズチャンピオンになる。

2000年
再度クラブチャンピオンに挑戦
引越しが決まっていたので最後の挑戦となる。

67、70、77トータル2アンダーで最年少(16才)クラブチャンピオンとなる。
最終日は逃げ切りにしびれてガチガチだった。
PGAプレーヤーの Robert Damronの持っていたレコードも塗り変えた。
HDCP +3となった。

2000、2001、2002年とHigh Schoolでステートチャンピオンシップを3年連続獲得

2002 Coastal sports of the yerarを新聞社から受賞する。

以上私の息子の自慢話でした(笑)

私としては初めての自慢です(笑)
どんなタイトルを取った時でも誉めたことがありません。(日本流?)
誉めてやりたい時もありましたが
それはこの先の厳しさを私自身が痛いほど知っているから・・・

これが私達のプロフィール
実績はこれから・・・・作ります。
レッドベターの息子アンディともライバルの仲
こちらは少し私の息子がリード
どちらが優秀なインストラクターかは息子勝負です!!(笑)

Toshi Hirata jr

 

Toshi.Hirataの「気ままなアメリカ日記」


【少年から学んだもの】
 
「スターティングホールは緊張するもの・・・」だが緊張は・・・楽しみでもある。

 
17歳で「全米ジュニア」のタイトルを獲ったブライアン.ハーマン(Braian
Harman
)は私に向かってこう言った。
「僕はトーナメントでプレッシャーを感じなくなったら・・・ゴルフを止める!」
私は思わず絶句した。
 
これは彼が2年前「USジュニア優勝」という快挙の後、一緒にラウンドしたスター
ティングホールでの会話である。
「ブライアン!君は緊張した事があるのかい?」と私。
TVで見ていた彼にプレッシャーを受けていた兆候が全く見られなかったので、私は
不思議に思いこの質問をぶつけた。
何故なら、5フィートは残っていた相手のパーパットを簡単にコンシード(OKをだ
し)し、6フィートのバーディパットを4フィートもオーバーさせる強気のパットを
する彼に解説者も唖然としていたものだ。
このときの彼の心理状態が知りたくて、先の質問に繋がった。
 
何気ない会話の中で発した言葉に彼の非凡さと将来への期待・・・
いや!言葉では書きつくせないほどの衝撃の「一言」だった。
そしてこうも言った「相手のミスで勝ちなくなかったから・・・」と
なんという少年だろうか?
マッチプレーではどんなプレーヤーでも対戦相手のミスを心のどこかでは少しは期待
しているもの。
それが人間の性。
しかし彼はそれを微塵も見せない・・・潔い心。
 
17歳の少年から教えられたその一言をもっと早く知っていれば・・・
プレッシャーの中で自分のゴルフを見失って、苦渋を飲んできたあのプロテストは・
・・
 
プロテストは年齢が高くなるほどに受けるプレッシャーも高くなる。
プレッシャーをうけても崩れない技術。
その技術習得のために「最後の賭け」と称して渡米の道を選んだ。
そして私は・・・そう!それをもっと早く知っていれば、アメリカには来なくて済ん
でいたかもしれない(笑)
 
私の最近のゴルフライフは・・・その後のゴルフライフは冒頭の言葉通り、緊張を楽
しめるようになってきた。
逆に緊張感のないゴルフは本当につまらなくなってきたのである。
そして、その私もあと2年でシニアの声が掛かる。
緊張感を味わいたいだけの為に、シニアツアーのクォリファイに参加しようかしまい
か・・・と不埒な考えが頭の中を過ぎる今日この頃です。
 
Toshi.Hirataの「気ままなアメリカ日記」と題して連載を引き受けさせ
てもらった私でしたが、さて?何を書いていいのかわからない。
悩んでいても仕方がないので、私の周囲では一番有名な(笑)彼の話をもってこよう
と思ったら・・・訳の解らないスターティングホールとなってしまったのです。
やはりスターティングは緊張します(笑)
 
【マサと私】
 
私の人生とってマサ(大東氏)とは・・・なくてはならなかった人、そして大きな役
割を果たしてくれた人なのです。
10年前、彼の書いた1冊のミニツアーリポートがこの見知らぬ土地アメリカに、私
の目を向けさせたのです。
 
38歳だった私は周囲の反対、嘲笑、好奇の目、Etc・・・(笑)と戦い、この見
知らぬ土地にやってきました。
人間の運命は不思議なものです。
この時手に入れたビザは5年間有効だったのですが、申請は1年だけでした。
練習場には1年の休職という異例の措置をとって頂いた為、1年で十分だったからで
す。
ビザの有効期間を見て、「アメリカは俺に5年間も滞在させる気か?」と冗談で笑っ
たものです。
しかし、この5年間の有効ビザ。
このビザのお陰で私の人生がその後大きく進路を変えていく事になろうとは・・・こ
の時は知る由もありません。
 
そして、マサの「四方山話」でスタートした彼の「青春クリップ」と同じ体験を私も
繰り返したのです。
ただ少し違うのは、いや!大分違うのは・・・彼と違い、私の英会話能力はもっとお
粗末だったという事。
トンチンカン物語は山ほどあります。
いや、これからも増えていくことでしょう!
10年たった今でもコメディ映画で笑うことが出来ないのですから・・・(笑)
 
 
 
彼と重複した内容になるかも知れませんが、私の体験記も次回お話したいと思います。