「立花大和のスピリチュアルヒーリング」

先日、大東さんのHPで著書『時空を越えて今この生き方〜魂・身体の本来の生き方とは〜』を紹介して頂いた立花大和です。
 私は自分の中に流れてくるスピリチュアルなメッセージというものを、この本に載せ、自らの体験と共に各メッセージを解説しています。

メッセージは受け取り方によって様々です。

この本では、各メッセージに私見をのせていますが、それが正しい訳ではありません。

なぜなら、そのときの自分によって、またその人の歩んできた人生によって、解釈の仕方が全く異なるからです。
 まずは、「自分を知ってゆくこと」を目的として本を読んで頂きたいです。
「自分を見直すこと」で他人の見方も大きく変わってきます。

しかし、一体それをどの様にしてゆけばいいのか・・・

そこで悩む方が多いと思います。

そこでどうやって自分を知ってゆくのかを、この連載を通じて知って頂ければ幸いです。   立花大和

第三十回「人間らしくていいじゃない」
この連載を通じてお伝えしたいことは、最終的に自分を愛するということなのですね。
自分を愛するということは、性格だけでなく、自分の体験そのものも含みます。
でも、どこかで、こういう自分は嫌だとか、自己嫌悪であったり、
やってきた体験までをも認められず否定してしまうこともあるかもしれません。
それはどこかで不必要なものだという思い込みがあるからではないでしょうか。
人が出逢うもの、やる事、触れるもの、見るもの、何でも、この世に不必要なものなんてないのです。
ただ自分が決めてしまっているだけで。
では、どうして不必要だと思い込んでしまうのか。
それは、世間からしたらマイナスだとか、人の役に立っていないとか、
生きている意味なんてないのだという所までいきついてしまっているからかもしれません。
必要、不必要は誰が決められるものでもないのです。
例え自分にとってコンプレックスなものであっても、それを必要としている人だっています。
世の中はバランスでできているのですから、全員が全員同じ意見なら、それはそれで変な話です。
一つのものを好む人もいれば、嫌いだっていう人がいていいのです。
人は認められるために生きているのではなく、自分で自分を認めることの方が先決だったりします。
自分を守ろうとする人ほど、良し悪しを決めてしまっています。
守ろうとするということは、自分が悪い者であると決め付けられていると思うからかもしれません。
自分を自分でどう思うかの方が大事なのですが、
それよりもそこにいる人からどう見られているかで、自分を守ったり、自分を解放したり、
そうして選別して自分を出している人の方が多いのでしょう。
そうするとだんだん疲れてくるのです。周りを見て、自分お表現を選ばなければならないから。
自分をそのまま出していたら、選ぶ必要もなく、自分に合ったものがよってくるものなのですけれども。
私も、潔癖すぎる所がありますから、怒ったり、人を恨んだり、意識が落ちるようなことを好まない傾向があります。
ですが、抑えようとすればするほど感情というものは出てくるもので、
本当はそんな自分も人間らしくていいのですれども。
意識が低いのが悪いという次元の話ではなくて、嫌だということを隠そうとしたり、
多少背伸びしたり、いいように見せたくなったり、嫉妬したり、
そんな自分も人間らしくていいじゃないって思えるようになればまた、自愛の一歩になるものです。
どんな性格でも、それが世間で悪いとされていても、人間らしくていいじゃない。

 

第二十九回「自分が変われば、周りも変わる」
人の出逢いって不思議なもので、似たような人が磁石のように集まります。
出逢いがあれば、別れもあり。
自分から去っていくものを追いかける必要はなく、
笑顔で手を振ることが実は良かったりします。
人にも物にも、波動というものがありまして、
一種のエネルギーといいましょうか、見えないその人の空気の波がそこにあります。
例えば、この連載にも、もちろん本にも私の波動がのっています。
本に載せてあるメッセージなどは、留学先のオーストラリアで降ろしたものもありますので、
オーストラリアの波動ものっています。
そして、そのエネルギーの塊は似たものを寄せ付けます。
寂しい波動には、寂しい波動のものが。
幸せな波動には、幸せのものが、磁石のように集まってくるのです。
人のエネルギーはずっと一定ではありません。
悲しいことがあれば落ち込むし、怖いことが起これば不安にもなる。
通勤途中にいいことがあれば嬉しくなるし、おいしいものを食べたら幸せになります。
心があるから、このように一瞬一瞬でも、人は変わっているのでしょう。
だから例えば、憑依なんてありますけれども、あれも結局は自分で呼んだものなのです。
見えない霊は、自分と同じ気持ちの人の側にいって、すっと憑きます。寂し
い人は寂しい霊を呼んでしまう。
だから寂しい気持ちがもっと膨らみます。寄ってく
るのは霊だけでなく、周りの人もです。
寂しくて恋愛したら、実は相手も寂しい人だったとか。
その時の気持ちで、出逢う人も起こる事まで違ってくる。
他にも、不安な気持ちでいたら、不安なことがどんどん起こるのもこの現象です。
嫌な気持ちの時に、さらに嫌な気持ちになるようなことが起こる。全部自分で呼び寄せているのだけれども、
本人はそれに気付いてないことが多いです。
そうして、同じものが集まってくるようになっているのならば、
ずっと高い気持ちで、幸せな気分でいれば、自然と幸せが集まってくるのです。
この「幸せ」っていうものもやっかいで、人によって幸せって違うのですよね。
欲の幸せは尽きることがないのです。
でも、人の為に生きる幸せは、ずっとずっと心に残り続けるのです。
自分を知っていき、自分のやりたいことをやっている時も、心底の幸せを感じることができるものです。
どんな時も、どんな場所でも、人の為という心はずっと続き、自分を知ることもできるのだから、
心配いらなくなるのです。
磁石のように成り立っているのですから、自分が変われば、周りに集まってくるものが違ってきて当たり前。
自分の意識が変わると、例えば、のらりくらりしていた人が「これじゃあいけないんだ」と決意を改め、
しっかりと働くようになると、出逢ってくる人が違ってきます。
同じ意識のものが集まってくるのです。
変わってくるということは、別れもあれば、新しい出逢いもあるということです。
だから何かの際に、自分から離れてゆくものがあっても、それはもう自分にとって用がなくなったのだ
という位の気持ちで思えば、離れた後の悲しみにずっとふけることがなく、
次の段階へとステップすることができるのです。
ずるずると引きずっていると、これがなかなか前に進めなくなってしまう。
せっかく前に現れた新しいものをも見過ごしてしまいます。
離れたものには手をふって、新しくくるものに目をむけてみると、
そこから自分がどう変わったのかが見てとれるようになります。
離れたものがどういったものであって、新しくきたものは何でしょうか。
それも自分の意識を確認する方法の一つです。

 

第二十八回「お勧めの本A」
 『おむすびの祈り』 佐藤初女 著 PHP研究所 1997年

佐藤初女さんは岩木山の麓に「森のイスキア」と呼ばれる憩いの場所をつくり、
心を病んだ人、苦しみを抱えた人達に、その季節に採れた新鮮な材料を使って、
おししいものを作り、食べさせてあげています。
初女さんが作ったおにぎりを食べて、自殺を辞めた人もいたそうです。
少女時代、初女さんは肺浸潤という病気で十七年という長い闘病生活に入ります。
何度も喀血する最中、注射や薬よりも、「食べる」ことで自然の素材のいのちを頂くということが
身体には大事なのではないのかと気付きます。
料理の素材は物ではなく、いのち。
食べることを通じて、自然からいのちをいただき、それを私たちのいのちへとつないでゆくそうです。
 
生かされているということの見直しです。
 
私が佐藤初女さんに辿り着いたのは、卒業論文がきっかけでした。
「個人的スピリチュアリティー」というテーマでしたので、見えないものを感じるという事から検索していました。
そこで目に入ったのが「地球交響曲(ガイアシンフォニー)」です。
(詳しくはこちらをどうぞ→http://www.gaiasymphony.com/
初女さんは第二番に出演されていて、昨年ちょうど和歌山で初女さんの講演を兼ねた
上映会があったので、観に行きました。

実際にお会いして、話を聴き、改めて自分の食生活を考えさせられました。

 

  第二十七回「生まれ変わりのお話」

では、実際の体験から。

これは過去世の見える方から教えて頂いたお話です。
母とは過去世でも親子でした。
実際、今の兄弟や、両親とは何度も何度も夫婦であったり、親子であったりします。
それは互いに学び合うことが多いため、近い関係を繰り返すのです。
常に近い関係であるとは限りません。
過去世親子だった人が、今世他人であることもあります。
他人だけれども、何か近いような、ずっと前から知っているような感覚になるものです。

母と長く続いている友達がいます。
過去世、母とそのお友達は夫婦だったそうです。
そしてその子供が私でした。
その人生で、母は私の父親、そしてお友達が私の母親でした。
母親(今の母の友達)がその時私にしっかりと私に伝えたそうです。
「あなたのお父さん(今の母)にはとてもお世話になったから、何かあったら必ず助けてあげてね」
そして今の人生で、私は母を助けるために生まれてきました。

嘘のような本当のお話です。

こうして、過去世の出来事が影響して、今の人生があります。
時代を越えての恩返しです。
自分を助けてくれる人が側にいるのならば、

その人は恩返しするためにそこにいるのかもしれませんね。

 

 第二十六回「お勧め本
本を読むことが苦手な私。
大学生の時も、レポートや論文に必要な書物しか読みませんでした。
今でも暇なら本を読むということは全くありません。
自分が疑問に思った時に調べる程度です。
そんな私でも読み込んだ本が一冊ありますので、紹介したいと思います。
『前世療法2』 ブライアン・L・ワイス著
        山川 絋矢、山川 亜希子 訳 PHP研究所 1997年
この本には、アメリカの精神科医が退行催眠により、心に傷を受けた頃の体験を前世までさかのぼり、
それを思い出すことにより癒しを得た人々の話が書かれています。
魂の世界、人は死んだ後でも生き続けるということが詳しく描写されています。
輪廻転生について興味のある人はぜひ読んでみて下さい。
私自身、病について悩んでいた頃、手にとった本です。
ちょうど同じ時期に前世について詳しく知っている方や、実際に見える方と出会い衝撃を受けました。
過去世催眠用のCDなども販売されており、私も何度か自分の過去世を見たことがあります。
人は何万回も生まれ変わっていると聞いたことがあります。
いろんな人生の中で、時代が変わっても、学ぶべきことは一緒であると体験を通じて知りました。
魂の存在を知ることで、自分の生きる世界が広がった気がします。
見えないからこそ証明できないものですが、実際、そこから受けている影響は大きいものです。
これから少しずつでもそのお話ができたらなと思います。

 

第二十五回「ああ、難しい」

何だか嘆きの題になってしまいました。

最近、いやここ二、三年のメッセージは本当に厳しいもので、伝える私自身も躊躇してしまう程です。
真実ほど強いものはないからこそ、それを本にして出してゆくことが人の為になると言います。
実際、本当のことばかりがこの世で通るとも思いません。
正論が人を追い詰めることもあると言いますが(私自身が発する言葉が全て正しいとは言い切れませんが)真実は本当に厳しいものです。
知らぬが仏ということもあります。
しかし、知らない方が本当にいいことばかりではありません。

厳しい言葉が頭に浮かんだ時に、ふと情がわいてしまって止めてしまうことがあります。

今はまだ想ったことを言えるようになりましたが。
厳しい言葉だけでは、相手が怖がって構えてしまいます。
ところが、優しい言葉だけが相手の為になるわけでもありません。

そこは情の使い分けと言いましょうか、情を出す時には出して、情を切って真実を伝えなければならない時もあります。
真実は厳しいからこそ、伝えることで相手に衝撃を与えたくないと思ってしまうのです。

衝撃は一瞬で、そこからどう考えるかで本人の修行となります。

人に施していた優しさが、実は人の為ではなく、自分のことしか考えない自己満足の優しさであったというのを知った時、まず憎い気持ちになりますよね。まるで騙されたような気分です。

憎いから責めたくもなるし、仕返しもしたくなるかもしれない。

そこで、その人が自分を守るために自己満足の優しさを出していたという事実を受け止めて、呑み込んで、憎しみや怒りを越えてどれだけ寛容になれるか、全てを許せるようになるのかが非常に大事になってきます。
真実を知った時、ショックで立ち直れないことだってあります。
でも、そこを乗り越えてこそ掴むものが大きいのです。
それが体験なのです。

こればかりは文字で説明をするには限界があるのが正直な気持ちです。
真実を伝えることが私の役目だとしたら、それを伝えることで人が何かを掴むことができるのならば、それしかないのかもしれないと今原稿を打ちながら自分自身に確認している所です。

自分と向き合うことは時として、厳しいものがあると思いますが、それが自分なのだと受け入れることが出来たとき本来の人間の強さが出てくるものです。
そうして自分を高めることになります。
優しい道だけでは、つかめないことです。
多少厳しいことであっても、乗り越えていった時こそ、他人の悲しみを自分の悲しみにし、他人の喜びを自分の喜びとできるようになるのです。
慈悲の心とはそこから出てくるものです。

友達から頂いた絵本の中の一節です
「ときに、むなしさを感じたこともあったことを、わたしは知らなかった。
どんな成功のかげにも、逆境にうちかつ苦労があり、どんな激しい情熱をかたむけようと、勝利を確実にするためにはときに、絶望とたたかわなくてはならぬことを。」
(『木を植えた男』ジャン・ジオノ原作、フレデリック・バック絵、寺岡 襄訳
 あすなろ書房 1989年)

 

第二十四回「寂しい想いは自分の自信のなさから」

いつものことですが、経験談からのお話です。

寂しいって想い、皆さんもされたことありますか?
私もあったのです。
そういう時、自分を認めてくれる何かを探してしまうものです。
それが恋人であったり、また寂しさを埋めるためにお酒を飲んだり、何かしらバランスを取るために人は行動に出ます。

これが、時々ならばいいのですが、その内依存症になることもあります。
自分で受け止められない、認められない自分を他の人に認められることで安心しきってしまうけれども、今度はそういった他の人を探し続けなければいけないことになりますね。
自分を受け止めてくれる人を探し続けるというのはまた骨折り苦労なお話で、その人がいなくなると不安に陥ってしまうケースというのも多いものです。
その人がどこかで自分の心の中の穴を埋めてくれていたような錯覚に陥りがちですが、実は最初から穴なんてないのです。

自分が自分の心の中につくる穴は、自分で空けたものです。
どうしてその穴を空けたのでしょうか?
それが自分を自分で認められない不安から、自分のやっていることの自信のなさから。

これでいいのだろうかというものがそんな不安や穴をつくっていたのです。

ただ、自分で自分を愛せていなかったというお話なのです。

すごく単純なことなのだけれども、この単純なものから不安定になっている人が非常に多いのかもしれません。
自分を愛してやっていくことって本当は簡単なことなのです。
自分を自分で肯定してゆけばいい話なのですから。
そうすれば、自分を認めてくれる何かを探す必要もなくなってきます。

よく、メッセージでも降りてくるのですね。
「不安を受け止めてくれる誰かを探す前に、どこからその不安が出てくるのかをちゃんと詰めることです」と。
一言で不安と言っても、いろんな種類がありまして、例えば新しいことをやる際には必ず不安は出てきます。

それは仕方がないから、自分の意識の中で横においておくのです。

放っておくと言った方が解りやすいでしょうか。

そんな時には、自分の好きなことをしてみる。

新しく始めたこととは全く関係のないようなことをした時、思い切り身体を動かしてみるとか、自分を忘れてしまうような趣味を持つとか。

これって非常に大事なことです。
また、過去からくる不安というのもあります。

過去の経験で嫌な想いをした経験をもう一度やるとなると不安が出てきます。不思議なもので、過去の経験とは今の人生だけの経験を言うのではなく、過去世(今の人生に生まれ変わる前の人生)をも含みます。

これだけは、信じる信じないに関わってくるかと思いますが、一つ私の経験か
ら。
過去世に武将とかお姫様とかトップに立つことが多かった私。

だから、上に立つ者の苦労を知っているので、今でも人前に立つことを身体が自然に拒みます。

この24年の人生で、上に立った経験がないのに、嫌だという感情が出てくるのはそういった過去世からの体験も含まれているからです。

不思議なのですけれども、ちゃんと魂が過去の経験を覚えているのです。
大勢の人と話していて、全員の目が自分に集中すると、ものすごい緊張感に襲われるものです。

こればかりは仕方がない。

過去あった骨折り経験や苦労がそうさせているのですから。

だからそれを乗り越えてゆくしかないのです。

不安だから嫌だと言っていても、乗り越えなければならないものは何度も現れますからね。

私が経験した寂しさは、自分のやっている事に対する不安からでした。
これでいいのだと自分を信じることを忘れていたからです。
自分のやっていることを自分で認められない程、肯定できない程、悲しいことはないかもしれません。

だから自分でもう一度決心が出来たいい機会でした。
本当に自分がやるべきことは何かを確認できました。

メッセージでもう一度尋ねました。
「私が人の為にできることは何でしょうか」

「本を書いてゆくことです」

だから私はこうして淡々と連載を書いています。
ただ、それだけです。

 

第二十三回「いつでもどこでも希望のある話を」
この題は、たった今降りてきたメッセージです。
連載でもっと希望のある話をしなさいって事でしょうかねぇ。
難しいものです。
私が一つ信じていることとして、
誰でも、どんな状況でも、どんな人にだって、落ちきった人にも、
側に希望の光りが必ずあるということです。
どんな絶望の淵に突き落とされることがあったとしても、そこには光ある。
本人には見えていないだけなのです。

苦しい時って、その中に埋もれてしまっている感覚になりがちです。
そこにしか目がいかなくなっている状態です。
ですが、ふと周りを見渡してみれば、どれだけの愛に包まれているのかが分かると思います。
愛は優しさや、暖かさだけではないのです。
本来の愛は厳しいのです。
私は色んな体験をしてきて、それが分かりました。その時は辛い。
逃げたくもなる。
でも、そこを越えた時に掴むものが大きい。驚く程です。

私が病気だった時、寝込み続けた日々の後、ふと外の景色を見た時に、
ああこんなに素晴らしいものだったのだと感じたことがあります。
日常で、いつも見ていた景色だったはずなのに、どうして違ったように見えたのでしょうか。
それは、私が変わったから、周りが変わったように見えたのです。
ここは細かく説明できないのですが、例えば、悲しいことがあった時にふと優しくされると
涙が出た経験はありませんか?
普通に元気な時に優しくされるのと、自分が一人ぼっちで落ち込んでいる時に優しくされるのとでは、
どちらの方が感激しやすいでしょうか?
自分の状態で、同じ事をされたとしても、全く違って感じるものです。
不思議ですね。
 
自分では気付かないところに、沢山の愛が溢れています。
気付かないでいるよりも、気付いて生活すれば、どれだけ感謝できることか。

瞬間だけを見ないで、全体の中の自分を見て下さいね。

大きく見れば、自分の抱えているものすら、ちっぽけに見えますから。

 

第二十二回「羨ましさからくる怒り」
最近、原稿の進み具合が好調です。
「出してゆけばどんどん新しいものが出てくる」とおっしゃっていた大東博士プロの言葉を思い出しました。

自分のもっていないものをもっている人や、またはこうないたいという理想の自分を
すんなりと表現できている人に憧れを感じる時があります。
憧れを感じるのと同時に怒りを感じたことはありませんか?
心理学ではこれをコンプレックスと呼びます。

もう少し噛み砕いてお話しますね。
自分がこうしたいと思っていることをすんなりされると怒ってしまうこと。
例えば、私でしたら、完璧主義すぎるところがあるのでもう少し適度に手を抜いてゆきたいと思っていたとします。
ところがずっと高いハードルを設定して頑張ることで生きてきたので、そう簡単に手を抜くことができません。
それが自分の中の常識だからです。
ところが、うまく手を抜いて生きている人が目の前に現れると、何だか腹が立ってしまうのです。
ちゃんときちんと生きていくことが自分の常識だからこそ、目の前でいい加減に生活されると、
私の中ではそれが常識ではないので、非常識に感じてしまう。
それで怒りがわいてしまう。
本当は、どこかで自分もそうやって手を抜いて生きたいという憧れがあるのです。
ところが、自分のやはり性格と言いましょうか、ちゃんとしていなければ不安定に思ったり、
不安が出てきてしまうのです。
今までずっとうまく手を抜いた生き方をしてきていないので、当たり前の話なのですが。
そういう人(自分の理想的な人)が目の前にいるということは、自分の中にも可能性があるからなのです。
ただ自分自身がその可能性の芽を伸ばすのを許していないから、目の前の人も許せなくなってしまうのです。
自分はちゃんとしていなければならないと思い、いい加減な自分が許せないと思うから、
自分の中の可能性を殺してしまうのです。

周りに腹が立つなぁと思う人がいれば、どうしてそう思うのか一度考えてみて下さい。
案外憧れからの怒りかもしれません。

 

第二十一回「ちょっと休憩」

難しい話が続いたので、ちょっと休憩です。
今回は少しリラックスして連載を書いています。
あまり頭を使わないで、日記のように、自由さを加えて書いてみるのもいいかもしれないと思いつつ、ワードをたちあげました。
いつもは、難しい話なので、表現や書き方に悩み悩んでいます。
これで伝わるかなぁと不安になりながらも、たまに開き直りつつ、大東博士プロのあて先メールの中に原稿を貼り付けて送信ボタンを押します。
押してしまえば、後は次のネタに頭が回転しだします。
この連載のおかげで、最近はいろんな悩みも、連載のネタとして出してゆけているような気がします。

ただ、思ったこととか、ストレス発散という意味で言葉を吐き出すだけではなくて、そこから自分がどう思ったとか、どう考えてゆくのがいいかなど、自分の考えを整理する上でもこの連載は自分にとって大事なものとなってきました。
私は先月大学を卒業し、今はこの連載のみです。
大学では心理学を専攻していました。

自分の事で悩むことが多かったものですから、自分の心に非常に興味を持っていたからです。私が大学受験した当初、いろんな大学で心理学科が増設される程、心理学はとても人気がありました。

どこも倍率が高く、心理学が勉強したいなという想いはありながらも、半ばあきらめていた所がありました。

実際、第一希望の大学の試験を受ける前日に、他の大学の合格通知が届き、それまでの緊張感が取れてしまい、当日眠くなってしまう程でしたが、それが逆に良かったようです。運良く、合格することができました。
受かる確率は少なかったのですが、やはり仕組みと言うか、運命と言うか、その大学に行くことが決められていたかのように感じました。
三回生の時にオーストラリアに留学したのですが、留学が決まるまではアメリカが希望でした。

TOEFLの点数が間に合わなくて、オーストラリアになったのですが、本を書くのを決めたのがその留学の最中でした。メッセージが降り始めたのが帰国の数ヶ月前で、その時にこれを皆に伝えようと決意したのが本を書くきっかけです。
今これを書きながら振り返っているのですが、やはり人生って何か流れがあるような気がします。

まだたった24年の人生なのですけどね(笑)
本でも連載でも悟ったように難しいことを書いていますが、私自身もいつも学びの連続です。

気付けば「ああ、本で書いたことなのに」と嘆くことの多いこと。そんな簡単にはいかないものです。
連載や本を読み返した時に、なかなかハードルが高いなぁと自分でも思うことがあります。

人間ですからね、いろんな想いがあると思うからです。
今この時代に、これだけ自分を厳しく見つめなおす必要があるからこそ、あえてメッセージをそのままにお伝えしています。書いてしまえば、私自身もそれに合わせてやっていかなければならないので、あまり厳しく書くのが嫌になる時もありますが(笑)

私もまだまだ勉強中です。
これからも自分の想いつくまま、考えるままに、書いてゆけたらと思います。

大東博士プロ、これからもどうぞ宜しくお願いします

 

 

     第二十回「出来る出来ないの問題ではなく、するかしないか」

物事って本当にシンプルなのです。
ただ、自分が膨らませて大きくしているだけなのです。
私たちは体験して学ぶ為に生まれてきました。
だから体験こそ全てだと、連載でも繰り返し繰り返しお伝えしています。
知識ではなく体験です。
若い私がそう言い切るのは、何だか不思議な気もしますが、自分が今まで色んな人に出会って分かったことです。
体験した人の言葉って重みがあるものです。
知識だけの言葉は、胸に届きません。いくら大声で言っても、強調しても、力んでも、胸に届かないのです。
体験した人の言葉には、不思議な力があります。一言ですっと胸に入ってゆく。そしてちゃんと後で聴いた人の心に残っているのです。
形としては同じ言葉なはずなのに、おもしろいものですね。
それが以前にもお話した見えないものの力です。

人の体験って見えないものでしょう?
形として見えたとしても、その人がどう感じたかは、目には見えてきません。
嬉し泣き、悲し泣き、叫んだり、驚いたり、動作としては見えるけれども、細かいところまでは解らないのです。
同じ動作をしたとしても、感じ方は人それぞれ違うものです。
自分がこう感じたのだから、他の人も同じように感じるに違いない。
それは大きな勘違いです。
私はこの連載で書いていることを正しいとは一言も断言していません。
正しいことなんて世の中にはないのだから。
もし正しさがあるとすれば、自分の体験を正しいとしているか、または世の中の多数決で決まっているようなものです。
そこにあるのは因果関係のみ。こういう原因から、その結果になった。
どれもこれも、失敗だって学べば、大きな悟りです。
やらない内から出来ないと決めるのと、やってみたけど出来なかったには、それこそ天と地ほどの差の違いがあります
そこに体験がのっているか否かです。
やっていない内からだと体験していません。
体験した人の言葉は胸に響くからこそ、本の中でも連載でも、自分の体験からしかお話はしていません。
やってみて自分がどう感じたか、何を得たのか、ただそれだけしかないのです。
例え、ここに載せている体験を皆さんがされたとしても、それぞれの感じ方をされて、それでよしなのです。
人は違うからおもしろい。
だからどんな事でも、体験してみてください。
それはするか、しないか。
「百聞一見にしかず」ですね。

 

 

第十九回「全てよしとすること」

ああすればよかった。こうすればもっと違う結果になっていたのではないだろうか。
そうして後悔している事ってありませんか?
経験はいつどこで役立つものか分からないものです。
私自身も、自分がやっている事に自信がない時は、そうして迷いの中に入ってしまいます。

そうしていると、一体どれが一番いいのかが分からなくなってくるのです。

一番いいものなんて実際はないのだけれど、どこかで自分の理想やいいものを決めているのでしょう。
とかく私は完璧主義、潔癖な所があります。
だから、全てをよしとするのに、思い込ませるしかないです。
どんな結果でも「これでよかったのだ」と、自分自身に言い聞かす。
自信がない時は一つの現象や結果だけを見ている時ですから、
そこで長い目で見てみる。
先のことは分かりません。
そんなことは当たり前です。
だからこそ、どこまで自分の経験に良し悪しをつけずに、よしとすることができるか、自分自身を信じることができるかは、その人の考え方にかかってきます。
どんな小さなことでも、いつどこで役に立つかは分かりません。
体験には良し悪しはないのです。

その人の価値観が良し悪しを決めているだけです。
人は誰かに悩みを話す時、その悩みが決断に迫られたものであった時、人は悩みを話す前から心の中で答えを決めているものです。

では、どうしてわざわざ他の人に相談するのでしょうか。
実は、自分の決めている答えを後押しするような言葉が欲しいだけなのですね。
自分の中で答えは決まっているけれども、本当にこれでいいのか、自分の答えに自信がもてないのです。だから色んな人に経験やアドバイスを聞いてみるのです。ところが、人によって価値観やアドバイスが違います。それぞれの経験から相談に答えるので当たり前ですね。
自分の中で答えが決まりかけていたのに、色んな言葉を聞けば聞くほど頭がこんがらがるものです。

自分の経験ではない人の経験を自分の中に取り込んでしまうからです。
本当に根本的な事ですが、未来は分かりません。
ですが、人は悩んでいる時ほど、未来を考えます。
こうすれば、ああなるという未来は自分が作っているものなのです。
だから、こうしようと思ったら、すぐ実行。
悩んで、人の価値観を取り込んで、未来を考え不安になるのならば、
まず自分に問うことが先決なのです。
他の人に聞く前に、まず自分はどうしたいのかを、自分で自分に問いかけるのです。
そこで答えが出たならば、即実行。
シンプル イズ ザ ベストです。
そしてどんな結果になろうが、それでよしとすること。
自己嫌悪も、罪悪感もいりません。
そこから学んだことだけが全てですから。
自分を信じてやってみることです。

 

第十八回「されて嫌だったことをしない事」

この題だけ聞くと、小学校の道徳で教わるような基本的な事で、当たり前じゃないかと思いませんでしたか?

よくよく意識して自分の行動を振り返れば、こんな基本的な事ができていなかったりするものです。
人を恨むと、恨まれます。
中途半端な気持ちでやったものは、中途半端に返ってきます。
人の為にとやったことは、自分の為にと返ってきます。
世の中はそんな仕組みです。

本当に腹が立った時、まず相手を憎むと思います。
でもそこで、やられた事をやり返せば、また同じことをやられます。
相手を責めたくて仕方ない感情にかられて、全部相手のせいにして、
ずっとそのエネルギーが相手に流れてしまうのです。
まず、された事を仕返すよりも、冷静に自分を見つめ直してみましょう。

自分が中途半端な気持ちでいれば、相手も同じ気持ちで接してきます。
真剣な想いがあれば、ちゃんと相手に伝わるものです。
皆元は同じ心を持った人間なのですから。
必ず想いは伝わると信じて行うことが非常に大事です。

何でも自分がやった形で返ってくると言いました。
だから相手を責める前に、自分がどういう気持ちだったのかを考える事が必要なのです。
返ってくる形は素直なのです。嘘はつけないのです。

以前、どうして自分の事を理解してくれないのだろうと家族に対して不思議に思ったことがありました。

全然解ってくれていないと一人で憤慨していたものです。

ですが、そこで自分を見つめ直した時に、ある事に気付いたのです。
私はちゃんと自分の想いを伝えてなかったのだと。
伝えてないのだから、相手に届くわけがないですね。
なんでこんなに苦しいのにと思っていたけれども、結局自分に原因があったわけです。
何だか拍子抜けした気分でした。

どんな結果も素直に出てきます。
こればかりは不思議なのですけれども、やはり見えない想いというものが、ちゃんと見えるもので返ってきます。
どんなものでも、何でも見えないその想いが大事になってきます。
同じ行動でも、人の為にやってのことか、自分のことしか考えていないものなのかで、全く違う結果が出てくるものです。
結果から物事の奥を見るとはそういうことです。

だから、人からされた事をやり返すのではなく、
そこから自分を見つめ直す作業と共に、
恨みのエネルギーを別なものに変えて出してゆくことです。
戦争が戦争を呼ぶように、恨みが恨みを呼びます。
同じことを繰り返さないためにも、過去を切り捨てて、前進してゆくしかないのです。
自分が中途半端な気持ちでやって、そして中途半端に返ってきたものをぐっと呑み込んで、エネルギーとしての強さを備えるのです。
簡単に出来ることではないのだけれども、簡単にできないからこそ乗り越えた時、素晴らしいものを掴んでいるはずです。

私は自分の溜まったエネルギーをこうして本という形で出しました。
自分がバランスをとるためには、本しかなかったのです。
自分には本しかないと今またそういった決意です。
様々な経験からの教えをこうして伝えることが、私ができる精一杯の「人の為」だと思っています。

第十七回「薄情も情のうち」

自分の物でもないのに背負わされた荷物。
情が深い人ほど、いろんな人の荷物を抱えこんでしまうのです。
だから、すごく辛くなる。
自分のものだけでなく、人のものまで受け取ってしまうのです。

以前書いたように、私はその情の深さが原因で、
家族の荷を自分から背負っていました。
自分が何とかしないと、我慢しないと、やっていかないと・・・
そうしてすごく苦しくなることがよくありました。

「ええ加減にすればいい」という友達。
情の深い人にとったら、そのええ加減がなかなか難しいものです。
あれも、これもしなければと思ってしまう。
いつの間にか自分の身体を痛めてしまう位、追い込んでしまうものです。

これだけは周りがとやかく言って、すんなり解決できる問題じゃないようです。
例えば、自分の親や子供が、病気になった時に心配して、自分が変わってあげたら・・・そう思った事はありませんか。
これも情の一つですね。
心配しないで放っておいたらいいと言われても、おそらくそちらの方が難しいでしょう。

情があると、心配などの不安も出てきますが、怒りが出てくるのも一つの現象です。
以前の母との話の中で、私の情が深すぎたために、振り回されたという犠牲的な観念を持った話がありましたよね。

それから怒りがわいてくるのです。

自分を抑えて生きていたから、その矛先がただ他の人に向いただけなのです。

とやかく、いろいろ心配、考え事が多くなると、人はその時にしなければならない事に充分なエネルギーは注がれません。
全ては本人がどう自分を変えてゆくかです。
どれだけ身体を痛めていたとしても、どれだけ苦しそうでも、自分のできる範囲をちゃんと作って、やっていくしかないのです。
人は苦しみの中でも必ず何かを掴んでいます。
どうか、そういったものが余計なものだと思わずに、当人が頑張っている姿を見守ることも一つの優しさです。

私は自分の病気やいろんな事を通じて、苦しみが悪いものだとは決して思っていません。
そりゃもちろん、ない方がいいものですが。
その中で掴めた事が非常に多かったからです。
どんな事でも、その時には必ず乗り越えることができるという自分を信じる信念も大事です。
周りの人は、そっと心の中で応援するのが一番いい方法かもしれませんね。

薄情も情のうち。
周りの人の荷物まで自分が背負っていないか、もう一度確認してみて下さい。

 

第十六回「家族でも個人である」

 最近、連載に家族の話が多くなってきたような気がします。
実際、著書『時空を越えて今この生き方』にも、ほとんどが家族の話だと言ってもいい位、私の家族の中での
人間模様が書かれています。
 本を書いている時は、「自分の家族の話で人の役に立つのだろうか」と不安でしたが、
感想を言って下さった方の中に「うちも同じなのよ」と深く共感してくれる人もいました。
家族は小社会です。
家族それぞれが違う魂です。
以前にお話したように、違う魂だからこそ学ぶことが多いのです。
子供は自分の親を選んで生まれてきます。
そして、その子供は親の知らない事を、そしてまた親は子供の知らない事を持ち合わせているため、
お互い教えあうことになります。
親子だからと言って、全てが理解できるとは限りません。
現状を見てみると、理解し合えていない親子の方が多いかもしれませんね。
 子供の事なのに、理解できない。
親の気持ちが分からない。
それはそれでいいと思います。
なぜなら持ち合わせている魂が違うからです。
ところが、魂が違うからと言って終わる話でもありません。
理解し合うことよりも、まず大事なのは、バランスだと思います。
(魂のお話をすると、輪廻転生も関わって大きくなってしまいますので、今回は省かせて頂きます。)
 家族は情が絡むのです。
そこが他人と違う所。

だから家族としてではなく、個人として見るのも一つの方法です。

こういう人もいるんだと、家族を見ることができればまた違った感情や考えが出てくると思いますよ。

 

第十五回「人の為=自分の為」

人の心を打つ言葉というものがあります。
以前にメッセージについてお話しました。
自分の心にひっかかるということは、共感しているからです。
他の人の言葉で、自分の本来の答えを見つけ出すこともできます。
本当のことをすんなり言われて、それがあまりにも図星だったから、怒ったという経験はありませんか?
それも、自分の心がその言葉を肯定しているということです。
この場合、本人がその事を素直に認めていないから、怒りとして出てきてしまうだけなのです。

先日、母の実家へ行ってきた時のことです。
めったに二人で話すことのない祖父と散歩をしました。
ほんの五分の間の事だったのですが、私は祖父の言葉に胸を打たれました。
「いいものを見つけた時、またはそれがいいものであると自分が知っている時、
人は自分がそれを手にいれたいと思うものだ。でも、そこで、人の為にどうぞという譲る心が非常に大事になってくる。」
たった一言だったのですが、私は深く感動し、今でもその言葉が耳に焼き付いています。
その言葉で、自分の心が救われた気がしたのです。
おそらく、祖父のその一言で、自分の中にあるものが出てきたのだと思います。
自分が悩んでいる時はぐるぐる巻きになっているものです。
落ち込んでいる中でそこから抜け出すのは全て自分の考え方にかかってきます。

私はこの祖父の言葉を聞くまで、いろいろ落ち込み悩みしていたけれども、この一言のおかげで自分の中のものが引き出され、意識的に高まったのでした。

たった一言で救われることがあります。
救われるということは、自分の中のものが共感して、高まるということです。

私の一言で誰か一人でも救われることができれば。
そう願いながら、原稿を書いている今日この頃です。

 

第十四回「受け入れる(許す)為には、自分の決めつけを捨てることが必要」

他人の事、つまり自分以外の事というのは、簡単に言えたりするものです。
話を聞くと簡単に「こうすればいいんじゃない」と言えるのですが、
これが自分の事となってくると別の話になる。
そういった経験は多いと思います。

他の人がどれだけ苦しそうに見えていたとしても、実際自分の身にふりかかってきた時に初めて本当の感覚がわかるものです。
人間そんなものですから、私はそれでいいと思っています。
ああ、こんな感覚だったのかと気付けばいい話であり、敢えて他人事だと責めていた事を悔いる必要もなく、その時の納得が非常に大事になってきます。

 

第十三回「通らなければならない道がある」

通らなければならない道は、何度でも何度でも形を変えてやってきます。
最初は小さな問題であったものも、逃げれば逃げる程、大きな形になって戻ってくる。

私はこれを今身をもって体験しています。
形が変わっても、どれだけ大きな問題でも、その大小に関わらず奥を見れば同じなのです。

これだけではあまりよく分かりませんよね。
では、もう少し具体的な例を挙げてお話しようと思います。

それぞれ個人の生きている課題というものは、もう生まれた時から決まっているのです。そしてその課題が凝縮されていると言いましょうか、乗り越えるべき課題が一番多い場所、それが家族です。

家族は小社会です。
よく自分の家族を見て下さい。
同じ親から生まれているのに、全然違う個性を持った兄弟。
長く一緒に暮らしているはずなのに、未だに許せない家族の言動があったり、理解できない部分というのは多いと思います。
人の悩みの大部分は家族にあると断言していい程、人が生きていく上で根本的な場所であると思います。
例え、悩む場所が違ったとしても、元を辿れば家族に行き着くことというのは非常に多いのです。

私の体験になりますが、もう少し詳しくお話しますね。
前回の連載にも書いたように、私は自分で我慢して追い込んで生きてきた所がありました。今でもその名残は残っています。
自分が伝えなければならない気持ちを抑えていたために、その我慢の矛先を自分以外のものに向けていました。だから家族に対して許せない気持ちが非常に強かったのです。
家族が嫌になり、外で安心できる場所を探そうとしました。
ところが、やはり外でも気持ちを抑えようとしてしまう。相手の事を考えすぎてです。そして結局外でも同じ事が起こってしまうのです。家族の中で乗り越えていたら最小に済む問題が、外までいくと友達や知り合いをも巻き込んで、最後には大きな事になってしまうのです。

ここで私の課題というものは、自分の気持ちを押し出すということです。それは相手に押し付けるのではなく、意見としてはっきりと発言するということでした。今でも意識しなければ、すぐに情に流されてしまいます。決して情が悪いわけではないけれど、自分を殺す必要もないということです。同時にもっと自分を愛することが必要だということをこの課題は教えてくれているのです。
この様に、通らなければならない道は形を変えて現れてきます。
その課題が目の前にあるということは、必ずその時に越えられるものだからだとメッセージでは伝えられています。
同じ事なのだから、どこで乗り越えても一緒なのです。ただ学ぶために生まれてきた私達は、その学びを得ることが一番の目的なのですから。

でも、どうせ同じ学びをするならば、
せっかく家族で生まれてきたのだから、一番身近な所で学びたいですね。
生まれる前から、自分の家族を選択して生まれてきているのですから。
この親の元で、この家族の中で、しっかりと学べることを前提に。
限りある時間しか共にいられないのですから、その時間を有効に使いたいものです。

 

第十二回「振り回されるのは、自分で自分を振り回しているということ」

振り回されたという感覚を持つのは、外に意識を置きすぎだからです。

突然こう言われてもピンとこないかもしれませんね。

別の表現を使うならば

「人の期待に生きるのは、人の道。自分の想いで生きるのが、我が道。」

私は自分に自信がないから、すぐ人に合わせようとしてしまう性格です。

自信がないからという理由以外にも、情が深すぎると言う理由もあります。

こうした自分の性質を知ったのは、一つの体験からでした。

近くに苦労している人がいれば、助けたいと想うのが人の心です。

それが情と呼ばれるものでしょう。

何か力になれば・・・そう想いながら、何とかしてあげたいと必死になる。

もし、自分の子供が病気だったり、何か悩んでいたら、そう想うのが親心というものかもしれませんね。

 

私はまだ嫁いでいませんので、もちろん子供もいません。

だから、親になるという気持ちをまだ知らないのです。

今は子供の目からしか親を見ることができません。

そう言った上で、お話を進めてゆきたいと思います。

 

私の母は嫁いだ頃から苦労の連続で、苦労と共に結婚したと言っても過言ではないくらいです。その母の姿を見て育った私は、その苦労を増やしたくないと我慢していることが多々ありました。小さいながらにも、その場の空気を読んで、どうすればいいのかを判断する心を身につけていたのでした。

どうにかして母を助けたいと思っていたからこそ、我慢できたのでしょう。

時が経って、いろんな事が解決していって、昔から望んでいた母の笑顔が見られるようになった時、私は喜びよりも、胸の中の空白を感じざるを得ませんでした。

 

きっとその空白は、母を中心に生きてきた為に、つまり自分を置き去りにしすぎた為にできたものだったのです。
だからこそ、喜びよりも、どうして自分だけがこんな苦労しなければならないのかという想いが先に出てきてしまった。そうして母に対する怒りも生まれてしまったので
す。

この経験は私にとって多くの学びをもたらせました。
私は母に対する情が深すぎたのです。だから、全ての判断の重心を母にしてしまっていました。母を見て、自分の行動を決めていたということです。自分の中の想いを置き去りにしていたからこそ、溜まった想いで苦しくなり、その想いを出すために、矛先を母に向けていたのだと思います。
情はつまり、相手の荷物を自ら共に背負うことなのだと思います。
自分から手をさし伸ばしておいて、荷物が重いって文句を言っているようなものです。

これは振り回される感覚に似ています。
本当は自分で自分を振り回しているのです。なぜなら、自分が決めてやったことだから。自分以外のものに意識を置きすぎているからなのです。

それに気付けば、人への恨みと言いましょうか、人への矛先がなくなるのです。
後は自分が原因だったと受け止められた時、その苦しみも消えてゆきます。
苦しみや恨みは、他のもののせいにしている限りは取れません。
立ち向かえば、必ず取れます。消えてゆきます。
どんなものでも、ずっとは続かない。
いつかは消え去るものなのです。

人が人に出来ることは限られています。
最終的に自分を救うのは、自分なのです。
全て自分が自分を救い、自分が自分で落とすこともできます。
そのきっかけを与えることはできるけれども、どうするかは全て本人に委ねられています。
本当の優しさは、どうやって自分を救うことができるのかを、自分が知っている限り人に教えることではないでしょうか。
教えた後は見守ること。
そうして、その人は後になっても、同じ苦しみをかかえた時でも自ら解決できるようになるのです。

我が道をきちんと進んでいるのかを再確認しながら、歩んでいくことが人生においては必要だと思います。
誰かのせいで自分はこんなに振り回されている。
そう思う人はもう一度確認して下さいね。
最終的に自分を動かしているのは自分なのですから。

 

第十一回「なす事でわかる事、それが学び」

どんなことでもやってみなければ分からない。

私は常にそう感じています。

 同じことをやったとしても、人それぞれ感想、想いが違いますね。

だから人の経験を聞いて、それが全てだとは限りません。

全ての答えは自分の中にあるというのは

自分から動いてこそ生まれるもの、それが学びだということです。

実際に、見て、触れて、感じること。

そしてそこから得たものこそが、その人だけの体験となります。

人から止められたから、辞めておこう。

それはその人の体験であり、自分のものではないんです。

信念がないと、人の言葉にまどわされがちです。

迷いがある時ほど、周りのことに敏感に反応してしまって

結局どうしたいのかが分からなくなるものです。

どんなことでも不思議に思ったならばやってみる事。

そしてそこから得たものを大事にすれば、

どんなことでも意味があると思えるのです。

どんなことでも、マイナスでもプラスだとしても、

ただの一つの体験

そこにあるものは、それだけです。

 

第十回「何の為に自分を知るのか」

 「自分を知る」って何だか不思議ではないですか?

なぜ、自分の事なのに知る必要があるのでしょうか?

私は病気だった時、また悩み苦しんでいた時に、いろんな方法を試してみました。

カウンセリングを受けたり、食事療法も試したり、専門の心理学を勉強して、

いろんな角度から何とか自分が楽になる方法はないのかと必死だったのです。

そして最後に行き着いたのが、「自分を知ることで自分を変える」ことでした。

自分の事なのに自分が知らない部分があるはずがない。

最初はそうして、たかをくくっていました。

ですが、実際自分が知っている自分というのはほんの一部で、

人のせいにしていた事の全ての原因が私の中にありました。

その細部までここに書くのはできませんが、私の経験を交えながら

今回は「自分を知ること」について少し説明したいと思います。

自分を知る一つの方法として感情を使うということです。

例えば、怒りが出た時に、その感情にのみこまれる前に、

ふと自分を落ち着けて「なんで自分は怒っているのだろう」と自問してみます。

そうすると、実は自分が正しくて、相手が間違っているという思い込みがあることに気付きます。

本当は正しさなんてどこにもないし、それが正しいかなんて証明できないのに、

自分が正しいと思いこんでしまっていることが原因で、それ以外が間違っているという認識に陥ってしまう。

これって意外とよくある話です。  

だから、怒って相手を責め立てる前に、一度自分の気持ちを整理してみるということです。

そうすると落ち着いた後、責めるという形ではなく、

対話という形で自分の気持ちを満遍なく伝えることができるのです。

怒りにのみこまれている内は、自分で話していることすら何が何だかわからない状態になってしまうからです。

正しさなどないならばそこには何があるのか。

その人が得てきた体験から出てくる意見だけなのです。

対話というものは、そうして、どういう考えなのか、どうしてそう思うのか、

それを詰めてゆくことができる最高の機会であります。

これは一つの例ですが、こうして感情をうまく利用すれば、いろんな自分を見つけだすことができるのです。

他には、何気ないことで怒ってしまう時。いらいらしてしまう時。

そうなる時というのは、大抵、自分の中に溜まっている想いや、小さな我慢が積もり積もっている時です。

普段なら許せるような些細なことが許せなくなって思わず責めてしまうことは私でもよくあるのです。

そして責めた後振り返った時に、本当はその都度言わなければならない

自分の想いを溜め込んでしまっていたと、はたと気付くのです。

そうして、さらに、どんな場面で自分の想いが溜めやすくなっているのか、

そうして詰めてゆくことで対処法が見つかってくるものです。

溜める前に、何らかの方法で出すことを意識的に考えるから、

次の機会には小さな事にいらいらせずに済むことがあるものです。

怒ることが悪いことではありません。ですが、

そうすることで自分の意識的なレベルを落とすことになってしまうのです。

小さな事にいらいらしてしまうことで、ぶつけてしまったり、暴力となったり、

大きな事でいえば殺人につながってしまうこともあるからです。  

だから小さい所から自分を見直してゆくこと。

これが非常に大事になってくるのです。

この連載で書いてあることを全部しなければならないとは思わないで下さいね。

ただ気付くだけでも意味がありますから。

それだけでも充分だと思っています。

「言うは易く行うは難し」

この言葉の意味をつくづく思う今日この頃です。

 

第九回「報恩感謝の心を忘れない」

毎日、いや毎日でなくても、皆さんは「ありがとう」という言葉をどれ位使っているでしょうか?
意識してみると、日常にはこの言葉を使う機会が数え切れない程あります。
手に届かないものを取ってもらったり、何か物をもらった時だけでなく、朝昼晩とご飯を作ってもらったり、そのお料理の中にも一生懸命農家の人が作ったお米やお野菜が入っており、それを食べることができる事に感謝する。
だから「いただきます」の中に自然と感謝が入ります。

このパソコンだって自分で作ったわけではありません。でもこうして原稿を書いて、リアルタイムで送れるのですから、すごいことですね。
着ている服だって、誰か作った人がいるわけです。だから着ることができる。
そうして私たちは、色んなものに生かされています。
笑顔も一つのお布施と言いますが、元気を与えてくれる言葉や表情から得ていることがあることに、人は中々気付かないものです。
空気だって、あるのが当たり前。この当たり前の中に、大事なものが沢山あります。
生かされている事に気付いて、感謝ができるようになると素晴らしい。
そしてその感謝ができたならば、報恩(恩返し)が自然と必要になります。
だから私は、人に何かをする時に、してやっているという心ではなく、お返しをしていると考えます。
不思議なんですけれど、「してやっている」と考えると見返りを求めてしまうのが人間の心です。あれだけしてやっているのに何も感謝されない、お礼もない。そういった文句が出てしまうんです。
だから、今生かされていることに恩返し。
そうすると、自分がやっていることに疲れがでなくなるものです。

 

第八回「こうでないといけない自分の枠を取ること」

こうでなければならない、あれをしなければならない、 そうして窮屈になっていることって自然にあると思います。

気付けば、やらなければならないことが溜まっていて、 身体が間に合わないなんてこともあるでしょう。

ですが、今やることというのは一つなはずです。

順番をつけてゆけば自然とわかると思います。

私は、真面目な性格が故に、「こうでなければならない自分」というものを 作り上げていました。

一度決めたことはやり通す、そうしなければならないと不安で 仕方なかったのでした。

でも、それは自分で自分を縛りすぎていたのです。「こうでなければならない自分」 というものを崩すのが怖かったからです。

作り上げて安定していたはずが、 いつの間にか不安定になっていたのでした。

 

これは何故かと言いますと、以前もお話した様に人は一瞬一瞬変わっているものなの にも関わらず、

自分が決めた枠以外のものを受け付けないようにしていたからです。

自分をこうでなければならないと決めることは、その時自分の心が求めている否に関係なく、 やるべき事を決めてしまっています。

自分の心は求めていることでも、受け入れること(肯定すること)ができない。

時にその体験がその人にとって必要であってもですね。

 

私は自分が求めた環境を肯定できず、ずっと苦しいと感じていました。

どうしてこんなにも苦しいのか、そうして自問を始めました。

素直な自分の心はどう想っているのだろう、一体自分はどうしたいのだろう、

他に方法はあるのか・・・色々想いを巡らせてみたのです。

そうして行き着いた答えは、物事の良し悪しを決めつけすぎているのが分かりました 。

これは悪いからしてはいけないとか、そうして、勝手な判断をしていました。

そしてどうしてそれを悪いと思うのかどうかと更に詰めてみたのです。

結局それは、教育や過去の経験が止めていました。

 

自分が本来持っているもの、それは性格だけではなく、思想や好み、興味のあること、

何でも本来持ち合わせて生まれてきていると思っています。

それは、後の回で説明します「魂」に深く関わってきます。

今の人生での過去の経験だけでなく、生まれ変わる前の人生、過去世と呼ばれるものも

今の自分に影響していることは山程あるのです。

 

他の人がいとも簡単にできるような事が、自分だけできないような状況ってありますよね。

同じ人間に生まれているのに、何故にこれほど違いがでてくるのか、 とてもおもしろい部分でもあります。

本来持ち合わせているものと、育った環境が違ったら、それはとても苦しいことです。

例えば、女性はこうでなければならないと、ある程度の枠組みにはめられて育て られた子供が、

実は持ち合わせたものがその教育と全く違った場合(中身は男性的な 女性である場合)、

素直な自分でいることに罪悪感を持ってしまったりするのも一つですね。

 

「こうでなければならない自分」を持ち合わせている人は、どうしてそう思うのでしょうか?

何が影響していますか?今一度、考えてみて下さい。

そして実際、その枠組みにいることで安定しているように見えて 本来の自分の気持ちはどうでしょうか?

自分を見直すことにとても大事なポイントです。

もし、「こうでなければならない自分」と今ある素直な気持ちや感情とに違いが 出て苦しんでいるのならば、

その作り上げた自分を壊すための最適な環境だと 思って下さいね。

そうして、崩すことで新しい自分を出して開放させてあげましょう。

きっと そこには、新しい芽が息吹いているはずです。

 

第七回「メッセージについて」

この連載の紹介文や、前回にも紹介した「メッセージ」という言葉。
私は当たり前の様に使っていますが、
おそらく疑問を持ってらっしゃる方も多いと思いますので、今回は「メッセージ」自体を簡単に説明します。

紹介文にもあるように「スピリチュアルなメッセージ」と一言で言っても、
何か漠然としすぎていて、何が何だか分からないかと思います。
スピリチュアルという言葉は、メディアや書店でもよく目につくようになった程、今話題のものです。
しかし、その解釈とは人によって様々であり、定義は人によって違うようです。
例えば、見えないものとつながる感覚と簡潔に定義する人もいれば
神秘的な非日常的な体験をスピリチュアルと呼ぶ人もいます。
また、縁や偶然もスピリチュアルに入ると指摘する人もいます。

私にメッセージが流れてくる時。
それは、例えば何か特別な儀式が必要でもなく、
ふっとした時に思い浮かんでくるイメージのようなものを、言葉に変えたのが「メッセージ」です。
人の声を聞くように、この肉体の耳で聞こえてくるのではなく、
ふと何かを感じる第六感と言った方が分かりやすいでしょうか。
別の言葉で表現するならば、イメージやインスピレーションに近いのです。
著書の中では、自分から質問して降ろしたメッセージと、自然に降りてきたものの両方を載せています。
普通に生活し、体験している中で流れてくるものであります。
私自身が様々な体験を通して気付きを得る中で、メッセージの流れや表現、その感じ
が変わるのは、おそらく、自分が変わる度に、その時のものに合わせたものを掴むことができるようになるからだと思います。
メッセージというものは、常に降りてきているものです。
それを掴むか、掴まないかなのです。

また、私が迷っている事や疑問に想うことがある時、
ふと何気なく読んだ本や、人との対話の中でその答えを見つけだすことがあります。
これもまた、メッセージの一つだと感じているのです。
本を読んだ時に見つかった時は「見せられた」とか、人と出会う事で大きな気付きを得た時は「逢わせられた」といったような表現を私は時々します。
何かに導かれたように、何気なくやった時にこそ、そういったメッセージを得ることができるのでしょう。


メッセージを降ろすことで、全てが分かるという意ではありません。
万能ではないのです。
もし、自分がメッセージを降ろすことで、先の事や迷いの答えを聞けるのならば、それは依存に他ならないからです。頭で分かるだけでは駄目なのです。心に通じていっ
てこその体験ですから。何事も迷いや不安を持ちながらでも進むことで、その答えを見つけられるものです。
そして、人が求めている答えは全て、「今」ある環境にある事。そして各個人の答えが見つけられた時は、それがその人にとってのメッセージだということです。
人によって答えは様々です。なぜなら、生きている目的が違うから。ある人にとれば取るに足らないくだらない事に見えたとしても、またある人にとれば、それが大事な
答えであることはいくらでもあります。
何が良し悪しか判断できないのは、この為でもあるのです。

全ては日常の中に、その人へのメッセージはあります。
手に取るも取らないも、その人次第です。

 

第六回「人生とは自分を探し続ける旅」

今回はメッセージの中でも最近のお気に入りを一つ紹介します。

人生とは自分を探し続ける旅である

旅の途中は、何度も困難にみまわれるだろう

何度もくじけそうになるだろう

旅を辞めたいと言う者もいるだろう

しかし、その中に、

その何度もある苦しみが、

実は旅の目的である事を思い出しなさい

そうしてまた

旅をしている場所も

その途中にあった様々な出会いも

限られた時間の中だけれども

それらが貴く、懐かしく思う日がくるだろう

その時のために今を頑張りなさい  

その時のために今の意志を突き通すのです

素晴らしい旅であったと

出会った全てに感謝ができるその日まで

(平成十六年八月二十七日のメッセージより)

いつも悲しい事や、つらい事があった時に

ふとこのメッセージを思い出します。

各自の旅の形は違っても、

全てに共通することは、

感謝を忘れないことです。

そして、全てが意味のあるものだということです。

皆さんはどのような旅をされているでしょうか?

メッセージについては分かりにくい方もいらっしゃると思うので

次回にでも補足説明させて頂きます。

 

第五回「良し悪しは本当はない」

こうして初めて本を書いて、出版して、読んで頂いて、様々な反響が返ってきています。
いろんな反響があって実におもしろいのです。
また、読む人の心境によって、引っかかる場所、読みたくない所、感動する箇所が違うようです。それもまた、どうしてそこが引っかかるのか、読みたくないのか、感動するのかといったように考えていくと自分を知るためのいいきっかけになるものです。

私も、自分の本をたまに読んでみたりします。
そうすると、自分が書いたのに、読む時は完全に読み手になってるんですね。
自分の書いたもので、自分が学ぶ事も常です。
「ああ、こんな考えがあるんだなぁ」といったように励まされることもあれば、
「この部分は言いたい事がよく分からない」といったように、
自分が書いたはずなのに、よくつかめなかったりするものです。
おそらく、その時の想い一つで書いた為に、今の自分にはその心境が分からなかったりするものなんでしょう。

こうして、書くことで、またそれを読むことで、一つの体験や学びがあります。
また様々な方の反響から、おもしろい事が発見できます。
本というのはそれを読むかどうかを、自分で決めることができますよね。
一方的に入ってくる情報というよりも、自分が気になる所だけピックアップできるおもしろさや、同じ内容でも二回、三回と読んでみると違ったように取れたりできます。

持ち運べる事から、好きな時間に、好きなだけ読むことができますね。
そして形として残せることで、何十年先の人が読むこともできると考えると本当におもしろいものだと思います。恐らく環境が全く違う未来でも、何十年前の書物を読んで、発見できる事があるのならば、素晴らしいことでもあります。

私は、自分の本を絶対に読んで欲しいとか、売れて欲しいっていう気持ちがないんです。
(ないと言ってしまえば語弊があるかもしれないので、はやり人間、欲もあるものですから、少しはあると言っておきます。)
何か少しの気付きがあれば、それでいいです。きっとそう想えるのは、この本を生んだ苦しさからもうすでに自分の学びとして満たされている所があるからかもしれません。
自己満足ではありませんが、人の反響よりも何よりも、自分の想いを形にした事で精一杯だったのだと思います。だからこそ、どんな受け取り方でもいいと思えるのは、自分がやり遂げたという想いに重心があるかもしれません。

様々な反響が返ってくる中で私が学べた事。
それは、やはり、良し悪しはないということでした。
反響も良し悪しがあります。でもどれが良くて、どれが悪いとは決める事はできません。
ただそこにあるのは、それぞれの受け止め方です。感じ方です。
それ以上も以下もないのだと思います。
ただ一つ言えるのは、例え良し悪しを分けたとしても、悪いものがあるからこそ、良いものが分かるということです。
私が病気の時、当たり前であった健康の有難さを知ったように。
書家・詩人でもあった相田みつをさんの言葉です。
「まける人のおかげで勝てるんだよなぁ」

今は、こうして連載させて下さっている大東博士プロに感謝の意で一杯です。

 

第四回「どんな自分でも自分であると受け止める事」

人は多面体であると認識しています。

多面体であるということはどういうことかと言いますと

簡単に言えば、人には様々な面があるということです。

様々な面があるということは

一面だけでその人を判断しないということです。

一面というのは「意外な一面を知る」の一面を表しています。

例えばの話です。

すごく良いことがあった後だったら「幸せでたまらない面」というものが出てきます。

悪い事があった後だと「誰とも話す気分ではない面」が出てきます。

そういった面が、前後の出来事や、その時の気分、状況に合わせて自然に出てくるも

のだと思っています。

そして、そういった面同士が、人と人との会話に影響してきたりするものです。

たった一瞬のことなんですけども、細かい違いを見てゆけば、同じ人でもさっきと

今とでは違っていたりするのです。

別の言い方をすれば、相手が上司だったら「きちっとする面」が出てきたり、恋人

だったら「大事にしたい面」が出てきたり、人は自然に変わっているものだと思います。

だからこそどんな面(自分)であろうが、全て自分であるということです。

いろんな影響を受けて様々な一面が出てくるものです。

怒っている自分も、人に優しくする自分も、情けない自分も、弱音を吐きそうな自分

も、人を責めたくなる自分も、人を恨んでしまう自分も、ぜんぶ多面体の中の一面にしか過ぎないのです。

どれが良い面、悪い面と分けるのではなく

自然と出てくる自分の一面を素直に出してゆくことが大事なのだと思います。

 

第三回「ゆっくりであってもやってゆく」

私はとっても慎重派で

行動を起こす前から考えがちになります。

とにかくうまくいくように、

先に先にと色々考え練ります。

ところが考えた所で

結果は同じものです。

先の事を考えたとしても

それはその時点での考えによる結論なので

やはりやってみなければ分からないことの方が多いのが実際です。

頭だけで考えすぎず

行動を起こすのに焦らないために

「ゆっくりでいいからやっていく」ことを

いつも心の中で思っています。

何事もやること、行動すること、体験が全てです。

結局、頭の中で分かっていることは想いだけで、

行動という形になっていません。

想いを形にしてゆくことで、一つの体験となってゆきます。

そして、結果はどうであれ、行動を為すこと自体に意味があります。

そうして全て意味があることだと思ってやってゆく方が

どんな体験だって生きてきます。

体験をした時点では、いつどこで役立つかなんて分からないものです。

だからただ「やってゆく」ことが、自分を自分で導く鍵になるということを

知っておいて下さい。

 

第二回「自分のカタチを見せる」

人間は弱いものです。

だから、自分をいいように見せたくなったり、

周りのカタチに合わせて自分を見せてしまったりします。

本来の自分のカタチをぼやかしてしまって、何か装飾して誤魔化してしまいがちで す。

私も以前はそうでした。

そうして自分のカタチを見せなくなることで安心していた所もありました。

ですが、装飾して自分を見せる、つまり自分のカタチをぼやかしてしまう事は

自分を自分で苦しめてしまいます。

だんだんと装飾しているものが重たくなってきてしまいます。

本来は自分のものじゃないからです。

自分のカタチをみせるということは、

自分の気持ちに素直になるという事です。

自分のカタチを見せれば、自然にそれに合ったものが集まってくるものです。

自分のカタチを見せる、その一瞬の勇気を持って下さい。

 

第一回 「今という時を刻む」

今というのは、「い・ま」と言っている間にも過去になります。

そう、今というのは瞬間、瞬間なのです。

瞬間だからこそかけがえのないものです。

戻ろうと思っても戻れません。

 同じことをしようと思っても、できません。

 毎日入れている紅茶だって

その時の心境や、空気で違う味になります。

形としては同じなのですが、想い一つで味だって変わるものです。

おいしい紅茶になって欲しいと想って入れた紅茶は

 なぜか本当においしくなるものなんです。

その時に入れた紅茶は、その時の味であり、全く同じ味にはならないからこそ

味わって飲みたいものですね。

毎日毎日同じ事の繰り返しだと思って生きている内は

そういった微妙な変化に気付かないものです。

今という時を一瞬、一瞬刻むことで小さな事で感動したり

大事なものが見えることだってあります。

何かをしながら、他の事を考えている内は、

 そういった一瞬を見逃してしまっているような気がします。

あれこれ未来を考えすぎずとも

「今」を精一杯生きることで、未来は勝手にできあがってゆくものなのです。

今を生きることで全てに繋がってゆくのです。